かわっていくもの、かわらないもの…

12月2日

 ちょっと遠くのホームセンター(最寄でない、という意味ですが…)に行く時にいつも気にはなっていたのですが、なぜか「また今度…」と思ってなかなか足を運ばなかった場所があります。

 それが下の写真の「掩体壕」というもの。茂原市にあります。

 案内看板がありましたので下にその全文をあげておきます。

掩体壕(えんたいごう)
 昭和十六年(一九四一)太平洋戦争が始まる直前の九月に、木崎、谷本、町保、新小轡、本小轡内の約一五〇戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転を命じられ、茂原海軍航空基地(戦略上は、海軍二五二航空隊)の建設が始まった。
 基地本部跡はいま萩原小学校、兵舎跡は茂原中学校であり三井東圧化学(株)東側の約一〇〇〇m道路は当時の滑走路跡で、基地の東端はいま東郷保育所の前の通称海軍道路と呼ばれている当たりである。
 この掩体壕は航空機を滑走路から誘導路を走らせてきて壕に納め、敵機からの攻撃に備えた壕である。
 二〇数基築造された中では最大の規模で、総面積三六五u、壕の中の面積二八六u、高さは最大が六m七〇cmある。
 戦時中で基地造成の人手が不足していたため当時の長生中学校や茂原農学校の生徒、周辺の人達等を動員して急いで造った。
 築造方法は、土砂を壕の形に盛って転圧して筵や板を並べ、その上に金網や鉄筋を張ってセメントを流した。その厚さは三〇〜五〇cmと均等ではないようである。また計算通りのセメントが間に合わず後から付け足したのも観察できる。
 五〇余年経た今日、茂原海軍航空基地を語る数少ない遺跡である。
平成七年八月十五日 茂原市教育委員会

 そもそも「掩体壕」とは何なのかがわかっていただけたと思います。

 一部、コンクリートが剥がれ落ちて、中の鉄筋が見えている部分が何箇所かありました。そのせいか「立ち入らないでください」と注意書きもあり、これ以上踏み込まないことにしました。
 実はこの掩体壕、住宅地のど真ん中にあり、すぐ脇の道はひっきりなしに車が通過しています。人の目も多そうなことから上に上ってみたい衝動もありましたが、遠慮しておくことにしました。

 

 上の写真が鉄筋が露出している部分。
 コンクリートの混ぜ物にかなり粒の大きな砂利が含まれていることもわかります。また、現在鉄筋によく見られるような“フシ”のない棒状のものであることもわかります。

 

 上の左側の写真はコンクリート表面に残った筵(むしろ)のあとでしょうか?右の写真は金網が露出しているのがわかります。

 ちなみにこの掩体壕のみ茂原市が地権者から土地を借り上げ、保存しているものです。

 

 この近辺には他に(車を運転中の散漫な観察でも)4基ほどの掩体壕が確認できました。上の写真はそのひとつ。
 ただし他の掩体壕はどれも畑の真ん中にあったり明らかに私有地内にあったので見学は遠慮しておきました。

 さてこの掩体壕ですが、役目を終えた今もなお残っているのはなぜでしょう?
 その理由はとても簡単で、「壊すに壊せない」からなのです。
 掩体壕は、敵の爆撃でも飛行機を守れるように頑丈に出来ています。ということは、不要になったからといっておいそれと撤去できるものではありません。20数基造られたとの事で一部は納屋などになっているようですが、そのほとんどが現存しているようです。

 またこの地(茂原市内)には地下壕もあるようですが、これもまた私有地内のようで特別に公開される時以外はなかなかお目にかかれないようです。

 

12月3日

 翌日いつもの銀じの散歩に出たのですが、いつも通るお寺がなんだかいつもと違う雰囲気。
 と思っていると、ごらんの通り大きな木が二本、切り倒されたようでした。

 

 上の写真は10月22日撮影。
 手前の二本が切り倒されたようです(奥の一本は無事の様子)。

 

ゆーじ「ほれ、登ってみな。」
銀じ「…遠慮しときます。」

 切り株をもっと近くで銀じに見せてやろうと思ったのですが、銀じにはいい迷惑だったようです。

 切り株を見てはじめてわかったのですが、この二本の木の幹には大きな空洞が出来ていたようです。このままほうっておいたら、ちょっとした風などで倒れたりする恐れがあったのかもしれません。
 切った時に出たと見られる切りくずも、ずいぶん朽ちているようでした。

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